パテックフィリップ、ステータスとしての腕時計の存在

腕時計は、二度目の危機に晒されている。

一度目は、いわゆるクォーツクライシス。

超高精度であり、小さく軽く、しかも安価な腕時計の出現は、職人的技術と誇りで形成された機械式腕時計の意味を、根底から揺るがした。

そして二度目の今は、言うなればケータイクライシスだ。

時を知るというだけならば、携帯電話の液晶画面で十分。

クォーツの利点さえも、腕時計そのものの不要論の中に消滅しかねない。

もはや時を知らせるという、本来的な意味での腕時計の存在意義は、証明され得なくなってしまったのかもしれない。

今でも時計店は多くあるので需要は勿論あるのは伺えるが、若者の使用は少なくなったのも現実だろう。

古来、時計の携帯はステータスであった。

それは主に貴族か富豪でなければ持ち得ないアイテムであり、庶民は教会の鐘の音等からしか、時の刻みを知る術がなかった。

時は過ぎ、携帯性の飽和によって貶められた腕時計の価値は、ステータス性の再獲得によって復活するかもしれない。

持つことそのものが、喜びであったであろうあの時代のように。

パテックフィリップほど、ステータスを裏打ちする腕時計は存在しない。

パテックフィリップの確かな技術、主張し過ぎないデザイン。

腕時計が生き残る今ひとつの道、アクセサリーとしての生き方を拒否したような、時そのもののようなシンプル。

生き残って欲しいと願うばかりである。